井戸の歴史と文化

飲み水を目的とした井戸で世界最古のものは、新石器時代(約9000年前)のシリア、テル・セクル・アルアヘイマル遺跡のものであり、日本の最古の井戸は、斐川町の御井神社の井戸、京都は斑鳩町の法輪寺の井戸、鹿児島県の玉の井と言われている。

日本で初めて井戸を作った人物として空海(弘法大師)の名があげられる。唐で取得した井戸掘りの技術を人びとが徐々に広めていったのが、全国での井戸の始まりと言われている。

江戸時代の下町の井戸は、現在のように地下水をくみ上げるものではなく、玉川上水の水を利用するために埋設された管(現在の水道管)から、枡に貯めた水を利用するものであった。地下に井戸を掘っても海水しか湧いてこなかったことがその理由のようだ。


『井戸生活』ホームページより引用

上総掘り

上総掘り(かずさぼり)は、掘り抜き井戸の代表的な工法である。やぐらを組んで大きい車(ヒゴ車)を仕掛け、これに割り竹を長くつないだものを巻いておき、その竹の先端に取り付けた堀鉄管で掘り抜く。古くから上総の国(現在の千葉県の中央部)を中心に行われた。 掘削機械の導入が進んだ現在の日本で、井戸掘りに用いられることはないが、人力のみで500メートル以上の掘削が可能であることから、開発途上国への技術指導が行われている。現在、上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財指定されている。


(Wikipedia より引用)

写真は 袖が浦市郷土博物館で、明治から三代続いている上総掘り職人・鶴岡正幸氏の指導のもと、「上総掘り技術伝承研究会」の方々による上総掘りの実演風景。

巨大な上総掘りの装置。人が小さく見える

ヒゴ車の中に人が入って足で踏板を踏んで回す

上総掘りに使われる道具類(展示品)

まいまいず井戸

「まいまい」はカタツムリのことであり、井戸の形がその殻に似ていることから「まいまいず井戸」と呼ばれるようになった。地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直に井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地上から底部の垂直の井戸に向かう。 「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野を象徴するものとして平安時代の都人にまで知られていた。

このような独特の構造の井戸が掘られた背景には、武蔵野台地特有の地質学的背景がある。武蔵野台地は古多摩川によって形成された扇状地である。武蔵野台地は脆い砂礫層の上に更に火山灰の層があるため、特に国分寺崖線から上は地表面から地下水脈までの距離が長い。従って他の地域よりも深い井戸を掘らなければ地下水脈に達しないにも拘らず、地層が脆いために地下水脈まで垂直な井戸を掘ることが出来なかった。そこで、一旦地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ、そこから垂直の井戸を掘って地下水脈に至るという手段が採用された。一般の井戸に比べてこのような掘り難い方法によって掘られた井戸が「まいまいず井戸」で、いにしえの人びとの苦労がしのばれる。


(Wikipedia より引用)

五ノ神まいまいず井戸

東京都指定史跡。直径 16m、深さ4m。1979年に羽村町教育委員会が設置した案内板によると、創始の典拠は無いが鎌倉時代の創建と推定されている。

青梅新町の大井戸

東京都指定史跡。現在残るまいまいず井戸の中では大型のものであり、東西約22m、南北約33m、深さ7mほどある。江戸時代の開発以前から旅行者が用いていた井戸と見られる。

七曲井

埼玉県指定文化財・史跡。すり鉢部上部直径18~26m、底部直径5m、深さ11.5mほどある。名称の由来はすり鉢の内壁が螺旋状の小径が井戸端まで7回曲がってたどりつくようになっていたことによる。

江戸時代の井戸の話

7月7日。七夕の日は、江戸時代には井戸替(井戸浚い)の日でもあった(挿絵)。当時、井戸は魚屋・豆腐屋・洗湯風呂・酒造・髪結・つき米・鍛冶屋など、ありとあらゆる産業に欠かせないものであった。一方、江戸時代には井戸掘り技術も急速に発展していく。「煽(あおり)」という器具を使った掘抜きという手法で、普通の深さからさらに竹を打ち込み、ついには先端に鉄製の鑿や錐を取り付けた井戸掘道具(挿絵)や鉄竿まで登場し、岩に穴を開け、100尺(約30メートル)まで掘ることができるようになっていった。これがいわゆる掘抜き井戸(シルト・粘土・岩盤で形成される不透水層を掘り抜いて帯水層の水を汲み出せるようにした井戸)である。井戸掘り技術の革新は工事費の価格破壊にもつながり、文化・文政期には一町に3つも4つも井戸ができるようになった。それでも当時は各戸に井戸はなく、共同井戸に頼っていた。 井戸掘り技術の発展はとどまることを知らず、精密かつ豪放な上総掘り井戸に結実した。*参考文献:堀越正雄『井戸と水道の話』(論創社、1981年)


(『小平井戸の会News』Vol.69より)

江戸時代の井戸掘り道具

怨念の井戸

昔から人々にとって井戸は命をつなぐものとして、なくてはならないものだった。井戸には神様(御井大神)が宿り、神聖で汚してはならないものとされ、人々は井戸の前にしめ縄を飾って祀った。一方、地底深く掘られた井戸は、不気味で危険な存在でもあった。今でも地方に行くと、井戸に身を投げて自殺した話をまことしやかに語る古老に出会うことがある。東京郊外の滝山城址に地上にポッカリ穴の開いた井戸が残されている。落城の時、城に残された大奥の女官たちがここに身を投じたのだろうかと思わず想像してしまう。下の右2つの写真は怪談でも有名な怨念の井戸。

八王子市滝山城址の井戸跡

滝山城は北条氏照が1559年~1567年に築城したとされ、多摩川の河岸段丘の地形を見事に活かした関東屈指の山城である。本丸跡の広場には、今もポッカリ穴の開いた井戸が残され、危険防止のために周囲は防護柵で覆われている。

八百屋お七の井戸

八百屋お七は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処された。井戸は現在の目黒雅叙園エントランス付近にあり、お七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。

番町皿屋敷お菊の井戸

姫路城にお菊井戸と呼ばれる井戸がある。この井戸には播州皿屋敷で知られる怪談話が残されている。 家宝の皿が無くなり、ぬれぎぬを着せられ、井戸に投げ込まれたお菊の、夜ごと井戸の底から「一ま~い、二ま~い、三ま~い・・・・」と、皿を数える悲しげな声が聞こえるてくるという。

新田当時の小平の井戸

小平村の新田

小平に人が住み始めたのは今から約360年前の徳川家綱の時代。この地は逃げ水の里と言われ、農業には適さなかった。入植は今の小川町あたりから始まり、徐々に東の花小金井方面に広がっていった。明治22年に6つの新田(江戸時代以降に開拓された土地のこと)と、小川村が合併して小平村が誕生した 。村人は庭に用水路を引き、飲み水として利用したが、やがて川の汚染が進み、疫病が流行し、人びとは安全な飲み水を井戸に求めた。

小平村の新田別の戸数と井戸の数

『武蔵野小平村に於ける新田集落の研究』に、昭和11年当時の井戸数が載っている。回田新田の井戸が際立って少ない。理由はよくわからないが、もしかしたら湧水を利用していたのかもしれない。小平の水位は深い所で16メートル、浅い所で8メートル。現在、井戸の数が最も多く残っている場所は鈴木新田あたりと思われる。


(『小平井戸の会News』Vol.42より)

東京の酒造の井戸

東京都に地酒を醸す蔵元は10軒あるそうだ(東京都酒造組合)。23区内に唯一残る北区の小山酒造(“丸眞政宗”)のほか、小澤酒造(青梅市“澤乃井”)、石川酒造(福生市“多摩自慢”)、田村酒造場(福生市“嘉泉”)、野崎酒造(あきる野市“喜正”)、中村酒造場(あきる野市“千代鶴”)、小澤酒造場(小澤酒造の分家、八王子市“桑乃都”)、豊島屋酒造(東村山市“金婚正宗”)、野口酒造店(府中市“國府鶴”)、土屋酒造(休業中、狛江市“鳳桜”)と、酒造りによい湧水や伏流水に恵まれた武蔵野台地の西側に多く存在する。(“ ”)内にあるのは、各蔵の代表的な日本酒銘柄名だ。自力で酒造りしている蔵元は現在7軒しかない。

酒造りに欠かせないのは、よい水とよい米。そして、優れた蔵人(くらびと)と技術が旨い酒を造る。「酒造の井戸」の取材をネタに、小澤酒造、石川酒造、田村酒造場を訪ねて、酒造りの話とともに、旨い日本酒と食事を堪能することにした。


(『小平井戸の会News』Vol.72より)

小澤酒造の井戸

石川酒造の井戸

田村酒造場 の井戸